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JUNE 2026

捨てたから、また注げる|田野屋 塩二郎

Only emptied hands can pour.

捨てたから、また注げる|田野屋 塩二郎

塩が寝てるから Because the Salt is Sleeping

彼のイメージと裏腹に、その日は朝から静かに雨が降っていた。

四国最小の町として知られる高知県田野町で、海水、太陽光、潮風のみで「完全天日塩」を育てる塩職人・田野屋塩二郎さん。「つくる」ではなく「育てる」とあえて表現する意味を、考えさせられることになる。

雪駄でふらりと現れた彼は、開口一番に言った。

「今日はハウスには入れないんだよ。塩が寝てるから」

頭に「?」が浮かび、どういうことか尋ねると「雨音が心地いいんだろうね。ハウスがスピーカーみたいに少し振動するんだよ」と彼は答えた。聞きたかったのはそこではないのだけれど、不思議と納得してしまう。強烈なカリスマ性と、強い生き物特有の余裕のようなものを纏っている。OFFモードのライオンってこんな感じだろうか。

35歳まで東京でサーフショップを営んでいた彼が高知へ来た理由はシンプルだ。日本一の塩職人になるため、そして日本一の塩職人がいたから。「沖縄にいたら沖縄に行ったし、海外だったら海外に行っただろうね。最初四国に来た時は、飛行機が不時着したのかと思った。小さくて」とおどけた顔で笑う。

「1kg100万」「世界中のミシュラン星付きシェフ愛用」「予約4年待ち」「大阪・関西万博《にっぽんの宝物》グランプリ」

今でこそ彼の塩には華やかな枕詞が並ぶ。けれど始めた当初はバカにされることも多く、決して歓迎されたわけではなかった。「最初は宗教かと思われてたよ。ハウスとか建ててるもんだから。"何教だ?"って(笑)。10年くらいたった今も理解されているかは、正直わからないけどね」とニヤリ。彼の言葉には裏も表も他意もない。

ほぼ、心の修行 Almost a Spiritual Discipline

彼の元には全国から弟子が集まる。大学を出たばかりの若者もいれば、彼より年上の人もいる。「大体、1〜2回は断る。"大変だからやめとけ""津波がいつくるか分かんないぞ""今の仕事をやめてまでやる仕事じゃない"と、あの手この手で脅してみるんだけど、みんなしぶといんだよ(笑)」。ストイックな職人のイメージも相まって、厳しい修行が待っているのかと思いきや、「特に何も教えてない」と彼は言う。「世間が言うほど職人然としてない。ほっとく。言葉をかわさない日なんてざらにあるしね。ただ、こうやって取材があったり、取引先が塩の相談に来たりするのは見せてる。教えるんじゃなく、見せてる」そう言って、隣で話を聞いている弟子に目を向けた。

知人も友人もいない土地で、3年間塩を学ぶ。明確な休みはない。給料がもらえるわけでもない。暑い日は1時間ごとに塩を混ぜなければならない。「そんな理不尽な3年間を過ごした後の人間って、強いよ。独立しても、自分の塩を適当に売ろうなんて思わなくなる」そう言った後「技術じゃなくて、心の修行みたいなもんだよ」とつぶやいた。

田野屋塩二郎

ほったらかしにする分、自由も奪わない。独立後も好きなように売り、好きなように責任を持てばいい。「風の噂で、あの子うまくいってるらしいよと聞くと、よかったよかったと思う。それくらいだよ」と言って、少し照れたように目を逸らした。

「弟子のお客さんに塩二郎さんの塩使ってみたいと相談されたらどうしますか?」と尋ねると、「断る。だって俺の塩の方がうまいから」と即答。「弟子の仕事とっちゃう。それは勘弁してくれ、これからも弟子のを使ってあげてくださいって言うね」。弟子思い?と思いきや、ゆるがない闘争心が清々しい。

捨てないと何も注げない You Can't Pour Without Letting Go

「塩で日本一」その目標だけを抱えて高知に来た。遊びも趣味も交友関係も手放し、ひたすら塩と向き合い、独立後は私財を投げ打って数千万のハウスを建てた。「不安はなかったですか?」思わず尋ねる。

「人間って、コップすれすれに水が入ってると思ってて」

雨を眺めながら彼はゆっくりと口を開いた。「新しいものを注ぎたいなら、何かを捨てないと入らない。塩で身をたてようと思ったから、いろんなものを捨てただけ」。雨に濡れるハウスに目を向けたまま、何でもないことのように彼は言う。「例えば、感動的なトマトをつくっている農家さんは、頭おかしいもんね。世間を捨てて、野菜としゃべってるんだとおもう」。笑い声にリスペクトが混じる。

「ただね」と前置きして「例えば農協に野菜を卸して固定給をもらって、子どもを大学に行かせる。それもいいんだよ。コップを何でいっぱいにするかは人それぞれなんだから」と言った。

意外な言葉だった。散々「捨てること」を言ってきた人の口から出たとは思えないほど、やわらかい言葉。彼が人を惹きつけるのは、強烈なカリスマ性や言葉の強さだけでなく、こういうところなのかもしれない。

田野屋塩二郎

一番のためのコップ A Cup Made for Being First

子どもの頃から「一番」が好きだった。鉄棒でもリレーでも、一番になるためなら恥ずかしいことでもするし、まわりは気にしない。それが彼の原動力なのだ。

では、日本一の称号をとった、これからはどうなるのだろう?

「今やってる塩のことはあと5、6年で辞めて、次の一番を探す」あっけらかんと彼は言う。「例えば国内海外関わらず、現地に行って、そこの人に塩を教える。誰かを世界一に導くのは、ちょっと燃えるね」と目を輝かせる。彼が手がける唯一無二のオーダーメイド塩を求めて、今は世界中・日本中から海水がやってくるが、これからは彼の方が海へ行くのだ。

やはり塩が好きなんだなと思った矢先、「あとは農業かもしれないし、佐官職人かもしれないし、鍛冶屋かもしれない。やったことないことをゼロから目指すのが好きだから」と言い出した。

そうだ。田野屋塩二郎という人間の面白さの一つが「たまたま塩」だということ。若い頃からサーフィンをしていた彼は、海の近くで何か一番になろうと思い、塩or大間の本鮪漁師の二択で悩んだ結果「塩」を選んだ。彼の中の最優先事項は「一番になること」で、「何の」かは二の次なのだ。そしてそんな彼にとって唯一ストレスなのが「敵がいないこと」「挑んでいないこと」だった。

絶対自然の近くがいいっわけじゃないし、やりたいことが都会にあったら都会に行く。「パッと辞めて、"あいつどっか行っちゃったよ"って。で、5年後くらいに"なんかレタスつくってるすごいやつがいるけど、あいつじゃね?"くらいでいい」そう言って笑った。

田野屋塩二郎

田野屋塩二郎が勝てないもの What Enjiro Tanoya Cannot Win Against

「塩二郎さんにとって自然ってどんな存在ですか?」唐突に尋ねてみると、彼は少し考えながら「神に近いかな」と答えた。

「勝てるもんじゃないから。沿って生きていく方が、自然のものってつくりやすいと思う。この場所に来て感覚が鋭くなって、都会にいた時より自然のことが分かるようになった。生産量を上げるために夜も稼働するとか、クソよ。塩も植物も夜は寝させないと」。そう言ってから「わかんないけどね」と付け加えた。考えははっきりしているのに、決して押し付けないし、言い切らないのが塩二郎流だ。

「今日は塩が寝てる」

最初に聞いたその言葉の意味が、情報ではなく実感として少しずつ腹に落ちていく。

「こっちでは生活そのものが自然と直結する。自分が少し人間界を捨てたから、自然界に少し混ぜてもらえるようになった、自然が心を許してくれた、そんなイメージ。例えば野良猫が来てなんか言ってるなとか、この草はこうしたいんだろうなとかね。塩も同じで会話ができる。そう言うとみんな、笑うけどね」。

はっと気づく。彼の塩が人を惹きつける理由は、技術や知識よりもっと根源的なところにある。神にお供物をするように、彼が持てる全てを差し出して得たもの、それが塩なのだ。

「自然が羊水だとしたら、俺が赤ん坊、包んで守られてる感覚かな。人間なんてちっちゃいよ。ビルを建てたって地震きたら終わるし、ここだって津波には勝てない」そう言って空を見上げた。

長年連れ添った友人や家族とも話したことのない感覚を、ほんの1時間前に出会った人と共有している。不思議だ。この人も、この場所も。「なんの宗教?」と思われたのは、あながち間違っていないのかもしれない。いつの間にか塩の話より、生き方の話をしている。お寺にでも来たような気分だ。

田野屋塩二郎

そんなものはない There Is No Such Thing

「そういえば、塩二郎さんにとってのいいものってなんですか?」

すっかり忘れていた主題を、帰り支度をしながら尋ねる。

彼は傘を開きながら「いいものって自己満足だよね。だって"このカメラ最高です"って言われても全く興味ないもん。あなたのいいものと、俺のいいものは違うし、それが世の中にとってのいいものかも分かんない」。

少し考えてから続けて「塩職人として言わせてもらうと、"自分が満足できるもの"かな。それが美味しいと言われるかはどうでもいい。人の尺度に左右されるもんじゃない」。そう言いながら、何も言わず傘の中に入れてくれた。

「本当にいいものなんてないんじゃない?」

自分の肩が濡れていることに気づかないまま、彼は笑いながら言った。

田野屋塩二郎

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